1Q46年生まれ終戦っ子ほぼ団塊世代の「あの頃」そして「このごろ」を思いつくママに     

昔の物価や昔の名前などもネットで即検索できるようになったけれど「あれは何と言ったろうか」とか「いつ頃の事であったか」などという文体も使いたく思いつくママに一切考証なしで構成しようと思います。

 

*ご感想と「あれはこうだったよ」など御指導のメッセージ歓迎です

 

「ふきんと漁業組合①

それは昔

私の釣りの師匠が病高じて山菜居酒屋「ふきのとう」を市内雑居ビルの一階に開店させた。本日は開店日とて仲間と連れ立ち花束に一升瓶に文庫本など提げてお祝である(文庫本は店が暇な時に読めという心遣いである。ああ美しいかな友情)。予定時間より早めにガラリと開けると左にカウンター厨房、テーブル席が43畳ほどの座敷となかなかの構えである。店主が仕込みをせっせとしながら「早えよぉ」と言いつつ溶けそうな笑顔で、奥さんが絣の着物でふくよかに迎えてくれ、無言でビールの栓を開けてくれる、シュポン。

 

まず、フキノトウ こごみ シドケ ハリギリ うど ミズ たらの芽 アンニンゴ などの天麩羅、おひたし、和え物など山菜の料理が卓に並ぶ。刺身や煮物やら、店主が採取して来た物も「コレとソレね、きのう採ってきた」と混じる。この日のメンバー全員が御馴染み御存知だから食材の説明無しである。ヤマメの唐揚げがシュワシュワ言いながら出て来た。ヤマメ本人が言っているわけではない。2度揚げされているので頭から丸かじり。プハーとビールが旨い、男は黙ってサッポロ!

 

主が店を構想していた頃に、いつもテンガロンハット姿で看板工房で(長年、看板屋をやっていた)「自分で取ってさ釣ってっさ、そういうのを出すんだ」と語っていた。わたしも看板の手伝いアルバイトを時々させてもらったが、雨が降って来ると「いい天気になったねぇ」と言いながら作業を止めてしまい、ピックアップトラックで渓に連れて行ってくれたものだ。(塗料の乾き具合も悪くなるし、設置にも不向き。なによりも魚の活性が良くなるので釣り日和ということ。車の荷台には釣餌のミミズ飼育箱が常備されていた)。にしても、名人ではあるが揚げているヤマメは数十である。どんだけ入れこんで釣ったのか…まさかね。知り合いの養魚場から仕入れるのを知っていたから「すごい大漁だねぇ名人、よっ!渓流の恐怖」と意地悪を言ってあげる。渓釣り、素潜り、焚火などもこなし、彼が通った後はペンペン草も生えないという恐怖の存在だが、皮肉に反応はない。店主の得意技は「聴かぬ振り」。

 

ほろ酔いで見渡すと「客の鈴なり」「春夏冬25合」などという縁起額が飾ってあった。

               ☆

 

「んだうんだ爺さん」←これは続きで

「ふきんと漁業組合②」

 

 仕事帰りに「よく働いた私に御褒美、一杯飲ませろ」 

遊び帰りに(おいおい)「疲れたから、もすこし疲れさせてくれ 」「

 きょうは旗日だからね、乾杯」

「何でも無い日、ばんじゃい(わたしの大好きなセリフ「ふしぎの国のアリス」より)」なにかと理由をつけて店に寄る。

 

 常連は「ふきんと漁業組合」をでっち上げた釣り遊び仲間。まず、店主(いつもいるのは当たり前、居ないと店に入れない)「山菜大王」、あるときは「野遊び師匠」、物知りの引き出しが沢山何段もあるから「タンス」。

 江戸友禅職人の落語好きな(「黒門町の」といえば、台東区西黒門町に住んだ8代目文楽の別名にちなみ)「金森の」。

 店舗デザイナーで飲むと何処ででもすぐに寝てしまう、お好みの枕は椅子の背もたれか河原の岩。某歌手に風貌そっくりなので「スティービー」。某歌手というのは誰か判ったでしょ、スーパースッティ~ショオオオン♪。

 建築デザイナーで皮肉を言う為に生まれて来た「ガクエン」(これも住まい住所から)。

 ガクエンの兄、やはりデザイナーで建築会社社員の理屈屋の、オピニオンリーダーと言ってもいいけど「オオヤ」。

 某警察署員、機動隊出身なれど気配りフットワークのよい「コバヤシ少年」(仲間内で最年少だから。30代にはなっている。少年探偵団にも所属している、ことにする)。

 店近くの着付け学校の講師、おねいさん気質で男まさり妙齢年長で元気印「ミオコさん」。

 に、主なるメンバーの知人友人姻戚関係などの、弁護士、会計士、カメラマン、割烹店主、きちんと会社員などが入り乱れるのだ。

 

顔見知りになる常連さんも増えて…常連の我々が常連と顔見知りになるのは自然の摂理、天の配剤、いわゆる当たり前なのだが、ほとんど毎日いらっしゃる綺麗な白髪のなぜか和服姿の「ピアノの先生」は御近所の方で独り住まい。夕食とビール一本でスッと帰られる。粋でござんす。息子さんがオートバイ競技トライアルの世界的なライダーである。トライアルを近場の里山でイタズラ乗りをする組合員とはバイク談義で親しくなった。

 

 そして、いつやら作業服姿の「うんだうんだ爺さん」も話しに加わるようになった。いつも2軒目に来るんだろう、へろっと酔ってて問わず語りに、東京で遊べるのが毎年たのしみで秋田から出稼ぎに来てる事、秋田はどの辺なのと聞くと「うんだうんだ」答えてませんな、返事はいつもこれだけ。

探偵団のコバヤシくんが執拗な尋問をカツ丼差し入れながら白状させた調書によると有名温泉の奥で役内川と言う釣り絶好地である。うんだうんだ、ということで、もう秋も深まっていたが、「うんだ、仕事も終わり家にいるから待ってるねぇ(ここは不思議に訛り無し)」

 

連休にぶつけキャンプ釣行に行くことになった。

1985年7月 越後の夏休み①

1985年7月 越後の夏」img049初日p

小学校が夏休みに入ったばかりの7月末の朝に長女長男を連れて「自家用車」で、新潟方面に出かけた。北のかの地は未だ夏休みになっておらず、海山も空いていて過ごしやすいのだ。(8月になってから短い夏休みになり代替えに冬休みが長い)img063

友人のカメラマンの愛用タウンエースが当年車検切れ、まだ残りが半年ばかり在るので「要らないかなぁ」というので焼き鳥と引き換えに頂いた。写真家が仕事で使用していたのでルーフによじ登れる荷物台あり、車内はフラットになりコンパネと花ござで和室も作ってあるのだ。寝具炊事道具など満載で、先輩記者が命名した「おもしろ車号」は出発した。

町田から八王子方面へ。高速道路は無いったらない、中央道も圏央道もアウトバンもないので国道を行く。オニギリを食べ麦茶を飲んだりし、エアコンの無い車内は夏らしい陽気である。けれど昨今ほど高気温でなく猛暑の記憶はない。ウィンド開ければしのげたよ。16号から東松山、17号に入り工事車両がわんさかホコリを上げる国道から峠越えをして湯沢に出た。関越トンネルが開通したのは1985年10月なのだ。湯沢駅前に駐車し食堂で昼食(なにを食べたろうか、野菜炒めにラーメン?カレーライスか、そんなもん。え、ウナギに寿司だった?←見栄を張ってはいけません)

苗場から小千谷、長岡…新潟は広く道は遠い。最初から「どこに行く」という予定も無く、海に行きたいよねと、長岡で左折し柿崎をかすめて上越方面へ。何時間走ったのだろうね、もうすぐ暗くなる。海が見えて来て海岸への道路が見えた、今夜は波音を聞きながら車内泊です。

〈2日目〉img047水族館 のコピーimg059上越遊具 のコピー

朝。同じような姿勢で重なって子供達は寝ている。そばの砂浜に出るとお盆か法事か仏花や原色の飾り物が打ち寄せられていた。視線を上げると苅羽だろうか原発が遠望された。楽しくもないので車を出し移動だ。地図で見ると(当然カーナビなどない)ここは鯨波らしい。柿崎をかすめて上越市方面へ。海岸近くに松林が在り、そこで軽く食事にする。カセットコンロだったかガスストーブだったか焚火だったかで調理した。(昔のことは忘れてしまいますね)img053笠島キャンプ のコピーimg064

近くの水族博物館に行く。駐車無料、遊び放題の空中自転車などの遊具も完備、ここは当たりであった。巨大タカアシカニやシーラカンスにビックリしたりゆっくり時間を過ごして北上する。なんてことない昨日来た道へ戻っているのよ、計画無しだから効率は考えてないのよね。img071img072

柿崎あたりでキャンプ場の案内板をみつけ、山方向に右折。小高くなった濃い緑陰の「笠島休養地キャンプ場」常設のテントに荷を運び食事をする。運動公園で遊ばせる。海岸で今夜は花火大会があるそうだ。img062

明日は寺泊に向かう。「魚のアメ横」(東京上野のアメ横が商標権を所有しているのでいまは「魚の市場通り」という)
img057笠島渚 のコピーimg050笠島花火p

 

1985年 越後の夏休み②

3日目〉

昨夜は国道際から浜で上がる花火を見物。スノーケリングや小魚と遊び、子達は疲れたろう早めに就寝。木立の中とて蚊取り線香と小さな焚火を見ながら飲む。img065

木漏れ日の朝、キャンプを撤収して(常設テント泊なので片付け簡単)出発。しばし街中の国道をのんびり走る。越後線だろうか時折線路沿いになる。柏崎を過ぎ、出雲崎当たりで脇道に入ると農村風景。道路地図で見た(10万分の1縮尺の大判、他にガイド資料はないのだ)良寛さんゆかりの里など見学する。石碑と古いお堂と…連日晴天カラッカラ、まぶしい旅です。

さてまた海沿い鉄道沿い(羽越本線)の道に戻り寺泊の町へ。魚市場前の浜の市営無料駐車場に、今夜の宿を探す。町中なのでキャンプというわけにもいかず車中泊にチェックイン。車の屋根にシャワー用の黒ゴミ袋水入りを、たっぷんたっぷんさせながら載せる。ソーラー温熱機というわけ。夕方の町をぶらぶら。img052寺泊かに のコピーimg078

市場で魚を物色。お金を持たせた子達が買ったものはタラバカニ。わたし喉が渇いたし子達は腹がへったろう。クーラーボックスにカニをしまい(明日たべるのだ)先ほど目星をつけておいた市場近くの魚料理居酒屋に3人連れ立って「あう、ごめんよ」とノレンをくぐる。子達に「なんでも好きなもんを頼みな」と太っ腹。う〜んと、う〜んと…好みを聞きながら見繕い、御飯もつけて「いっただきまーす」わたしただ今ビール2本目。楽しくおいしい宴会のあとは目の前の浜に連日の花火見物。この時期も観光シーズンとて催し物も多いのだな。img067

砂浜に適当に陣取る。市中放送スピーカーから「本日はたいそうなにぎわいで○○海岸はxx人のお客様が…..」とアナウンスしていたが、ゆったりしたもんです。
いきなり「どどどバババシュ〜」と座っているすぐ横から、打ち上げが始まりびっくり!!!img045寺泊花火 のコピー

 

1985年 越後の夏休み③

〈4日目〉img080
さらに北上。新潟は広い、というか長い、遠い。どこまで行っても国境を越えない、亡命は困難であろうなどと思う。なだらか平地にツン抜けた山塊が見えてきた。弥彦山だ。学生の頃に切手収集をしていて、記念切手の「佐渡弥彦国定公園」の絵柄で御馴染みの山容なので(どういう理屈なんだろうか)海岸に行ってみる。
 
ロープウエイに乗るのでも神社に詣るでもなく、海岸の空地に車を停めて、子達は海水浴。流木を集めて小さな焚火を始める。海から上がった体を暖めるために、も。古ホールキャップを持ち出し、火にのせる。脇にヤカンを置き湯を沸かす。鉄板が、いや、ホイルが熱くなって来たので、クーラーからカニを取り出し鉄板ホイルで焼く。子達を呼び、温湯シャワーを浴びせて着替えをさせる。裸を恥ずかしがらないが、いつまでかなぁと親みたいな(親だろ!)感慨が一瞬よぎる。さ、カップ麺とカニのランチ。カニを食べると無口になるとかいうが、おいしーキャッぴよピヨ!にぎやかである。バケツに水を汲んだフィンガーボウルで御上品に?指をぬぐう。

紫雲寺という所で何気に国道から外れ旧街道にはいる。古くからの漁村で小さな宿なども在り、店の中の炉で魚を焼いているのが開け放たれた入り口から見える。大きな囲炉裏みたいに角枠いっぱいの灰に串刺しの魚が炭火に炙られじゅーじゅーしているのを腰掛けた小母さんが手返ししている。おやつ時である、3人それぞれ好みの(適当に)魚を一本ずつ求める。かなり大振りでお買い得のを車に戻り海を見ながら食べることにする。img069

長女は丸イカ、長男はエビ(逆だったかな?/どこでも食べられる魚じゃないの、この地でなくてはの珍しいのを….ま、いいか)わたしはの30センチほどのウツボ。噂の通り白身で味が濃くクセも無い。それぞれがカブリツクが旨いね~、それぞれ育ちが良いので仲良くシェアする。けなそうとしたエビ、イカもウマいじゃないの、一味ちがいましたよ。img066  (食べてる写真上は翌年1986)

越後の夏休み④

子達との「新潟での夏休み」は、この年を皮切りに何年か続くのだけれど新潟を目指すようになったルーツがある。

1985年の更に20年ほど前(人には歴史あり)わたしは学生で、帰省した折りに待ち構えていた親父、わたし、13歳年下の弟の3人で「男の旅」に出かけることになった。父は仕事での訪越などの経験からであろう、7月中は先の地の学校他は夏休み前であり、空いててのんびりできること、道を訊くとわざわざ先導してくれるほどの田舎の人情豊かさ、食べ物が安く旨いこと、なんたって「おもしれえんだよ」おすすめなのである。

自家用パブリカに七輪やテント、ヤカンと共に乗り込んだ。高速道路などやはり無いので国道をゆらゆらと行くのだが国境を越えて北国に入るとスノーシェッドや田んぼの中の鯉池、大雪備えの腰高住居、各所のスキー場、雁木造り商店街、融雪設備の夏期散水など、景色植栽物価気質などなど目新しく面白いものであった。img081

今は見ない、ある意味先進の日除け虫除け目だけ出しのハンコタンナ黒装束のご夫人達と記念撮影したり、見渡す限り数人しかいない海水浴場で泳いだり農家の軒先にテントを張らしてもらったり2個数百円の大きなスイカにかぶりついたり。浜焼きを食べたのも初めてだった。img083

 

1985年 越後の夏休み⑤

〈5日目〉
左に日本海を見ながら北上再開、時に内陸に迷い込む。着かず離れずの線路は越後線かな、複雑交差点が何箇所かあり本格的に迷い、渡った大河は信濃川だろう、黄昏れ迫る新潟市に着いた。

適当な海岸の砂浜にテントを張り、夕食の材料を買いに行くが開いてる店が無い。コンビニやスーパーなどもない、そういう時代だったのかしらん、今は便利にコンビーエントになったねと感慨。野菜や御飯の備蓄はあるが….焼肉でもしてあげたかった、と、目前に焼肉の店の看板。肉を分けてもらうことにする。もちろんメニュー値段で高いので少しだけね。img070

朝。さらに北上する。なんども言うが目的はない。ま、行ってみっかというところ。ずっと海岸線に着かず離れず、ずっと着いてるのはライン改めまして羽越本線。子達は寝かせておき、海岸から小さな流れに一人入り毛針を振るが、いつものように熱心なので30分ほどでご帰還。この辺の小渓はアメマスなど生息すとガイド本にあったが、なるほど、いない!img079

ちょっとした広場があり遊具など何もなく何本かの桜と水道栓一個だが多分、公園で洗顔、子達も慣れたものだ、歯磨きクチュクチュぺ、などとやっている。海鮮味噌汁とおにぎりの朝御飯。ニコニコしながら食べる姉弟は、さして喧嘩もせず我が侭も言わず良い子達であるが、良い子に躾けてしまった責任みたいなものが過る。もっと爛漫でもよかったのかなどと、しんみりしたりして。

陸から海に山が傾れ込んでいる奇岩の景勝が続く「笹川流れ」で、しばし遊ぶ。ここから山形か福島の内陸に入り帰路についたらしいが、わ〜覚えてない。ま、無事に「越後の夏休み1985」終了。

(翌年からも何回かカミさんも参加しての旅をした)img068

 

『佐野ラーメンのルーツ考』

 昭和30年代。駅前を西に向かい5分程、路地を入った角の孫太郎神社の斜向いに『北(ぺん)さんラーメン』という店があった(正式店名ではないかもしれぬ)。中国人の北さんが作る鶏ガラだし基本うっすら醤油で塩味のさっぱりと、しかもこくのあるスープの味が記憶にある。

 

あれぞ佐野ラーメンのルーツと思っていたが、大正期に洋食店コックの中国人名前はやはり北さんによる青竹打ち麺作りが始まり、いいや台湾の人だ胡カヒンさんが麺を打って賄い料理に出したのが最初だよなどルーツに諸説あり。

        ☆

 佐野でかつて隆盛を極めた織物産業の従業員が夜食にと屋台に並んだ、働き者の土地柄で主婦もパートで働き外食するのは当たり前だった、来客があると出前をととって持て成す習慣がある、などなどでラーメン需要が伸び一般食堂でもメニューに加えられるようになる。

 当時人口5万人の佐野に150軒ものラーメン店があり、平成の今では人口8万5千人だが200軒を越える店がラーメンを出す。

 

『佐野ラーメンの人気の秘密』

 まず、一帯は関東有数の小麦の産地で上質の小麦粉が入手容易なこと。そして、麺を打つときに粉に加える水はレシピ的平均35%だが佐野ラーメンは多加水麺とて約50%と多めだ。麺に加える水、ゆでる水、スープの水、多量の水を要するが当地には名水があるからこそである。

 さらに、数少なくなったが手打ち麺の店があること。佐野ラーメンの特徴のひとつ青竹打ちとは、長さ2m、直径20cm程の青竹にまたがり、竹を前後左右扇形などにリズミカルに移動させながら、練って寝かせた小麦粉をのばし打っていくことでコシがあり舌触りのよい麺になる。太めで平たく長めの麺にスープがしっかりとからむ。(製麺工場に特注する店も多い。麺は麺屋に、研究熱心なプロに任せるということ、なるほど)

       ☆

ところでラーメンはなぜこれほど佐野のみならず全国普及したのかについて「化学調味料説」がある。簡単に万人向けの味付けができ、ラーメンを安く提供できるので気軽に食べられるからだと。もちろん、鶏ガラや豚、野菜などでしっかりだしを取り一切不使用の店もある。あの調味料の後味が苦手な私はこういう店に出会うとうれしい。

 

 

『いもフライとプール』

大橋の側の市営プールは 支流の流れを直に引

imo5436き込んだ「天然水プール」だった。炎天の大通りから木陰の小道に入ると横を流れる小川には水草の白い花が咲きオハグロトンボが舞う。プールは大型の鱒養魚場というようなもので(元はそうだったんじゃないかしらん)時々紛れ込んで来る小魚と一緒に泳げるというおまけつき。川水は湧水由来なので冷たく、充分に冷えた身体の帰り道の屋台で「いもフライ」1本10円だったか、熱いのをハッハフと食べるのが楽しみだった。

『いもフライ』

 蒸したジャガイモを串に刺し天婦羅衣と次にパン粉をつけて油で揚げ、大阪串揚げよろしくソースを「どぶっ」と浸けてもらう「いもフライ」はラーメンと並んで佐野名物のひとつでありましょうか。

     ☆

市内「いもフライの会」会員の店だけでも20軒以上あり芋の品種大きさ揚げ方、仕上げにつけるソースも各店各様。御当地産のミツハ、マドロス、月星印などをチョイス&ブレンドし甘口辛口エスニックにオーガニックなどにアレンジ多様?更にこだわって自家製しますですよという店もある。

*裏メニュー格別なイカフライありなどの店もあります

 *揚げ立てをアチチと口にするのがいちばんだが、冷えてもいけると思います。だからテイクアウトもおすすめ

(観光協会発行の「いもフライマップ」の表紙/立体イラスト/拙作)

 

 


 

『こどもラーメン』

 この町の食べ物屋が出す料理はおおむね盛りが良い。そうと知らず貴方がいつものように「大盛りで」などと注文すると、食べきれずに苦労することになる。今や名物となった佐野ラーメンもスープたっぷり大きめドンブリから溢れんばかり、麺もこれで一人前なのとひるむほどに盛り込む店が多い。大食漢にはキャッホーであるが、わしら凡人は食べたい餃子も注文せず我慢してボリュームたっぷりのラーメンに取り組む。(お育ちが良いので残せないのですよ)ふう~。

 ということで、あの店この店と食べ歩くことは叶わず、後日改めての再出撃となり、評判店全制覇はいつになるやらということになる。それはそれで楽しみであるけれどね。

     ☆

私が学童だった昭和三十年代頃のメニューに小盛りの「こどもラーメン」というのがあった。一杯20円だったかなあ、40円だったかの普通ラーメンの半額だった。忙しい商家の腹ぺこ息子のおやつは、いつもコレ。学校から帰ると小銭を手に裏の店に飛んで行ったものです。で。この手の小サイズのラーメンがあれば、観光客は食べ歩きができて喜ぶのではないかしらん。あるいはシェアOKよ、などのサービスあればと関係者各位御検討いかが。

 

 

 

『元三大師と露店』 

スポットCMなどで耳馴染みであろうか「厄除け安全祈願、三大厄除けの佐野厄除け大師」を地元では「元三大師」と言う。正月休みも元旦が過ぎ初荷の2日ともなると御節料理にもコタツにも食傷気味で3日から始まる「元三大師」に出かけるのが楽しみだった。

  ☆

1月3日は業魔退散の強力な法力を持ち降魔(ごうま)大師の異名を持つ元三大師というお坊さんの命日、なんてことは知る由もなし。厄よけやら開運などは大人に任せて 私ら子供の目的は露店である。串にさした蒟蒻を茹でて甘味噌ダレをつけパラリと青海苔をかけたオデン、大きな玄米蒸しパンに甘味噌を塗り焼き上げたパンジュー(だったかな)、崩し豆腐を醤油味の葛汁で仕立てたトップー、甘酒、焼ソバ…混沌の匂いの中を食べ歩く。雑貨玩具、果樹苗屋、鍛冶屋、古道具屋などの露店も並び品定めをする人々で賑わっていた。

  ☆

元三大師の宗惣寺は地元では「春日岡」と言う。佐野駅の裏にある城山をかつて春日岡と言い、宗惣寺が建っていたのだけれど、そこに北の唐沢山からお城が引っ越してくるので、お寺は今の場所に移転したが昔の呼び名の春日岡と言っているわけで、ふ~、わかった?春日岡の葵の紋所がある山門をくぐると(徳川家康が久能山から日光に改葬される途中でここに一泊したのにちなみ、境内には小さな東照宮も建立され葵の紋所もいただいたという)

  ☆

境内にはまた露店と人がぎっしりで、さらに色とりどりの旗と幔幕に飾られた見せ物小屋が出現する。聖俗混淆。

「人魚」「蛸娘」「人間ポンプ」などと、なんだろなというのが並んでいました。入り口の番台(というのかな)に陣取った法被姿の小父さんが、客を呼び込んでおります。「さあさあ、世にも不思議な蛸娘だ、親の因果が…」と、だみ声でまくし立て、番台の後ろのむしろをめくり「みよちゃん、やーい」と呼ぶと「あーい」と言って肩脱ぎの女の人がチラッとだけ姿を見せる。あれが世に二人といない蛸娘なのか、さてどうしようというところにすかさず「お代は見てのお帰りだ!」の一声に、いずれ料金を払うのだけれど後払いと言うのでなんだか得したような気になり人垣はドヨドヨと入り口に殺到するのであります。小屋の中は暗く、天井からの電球の灯りが眩しく、手すりの向こうの舞台と思しき台上になにやら揺らめく人影あり、目を凝らして見れば、蛸の縫いぐるみを着た(というか履いた)お姉さんが揺ら揺れているばかり。ふう。


 

『フマキラーと映画館』

 

 昭和33年頃。私は中学生になっていた。テレビが普及し始めて間もなくでチャンネル数3局ほどか、放映も日に数時間、延々とパターンが映るだけの実験放送だったり、今ではゴールデンタイムといわれる夜8時には終了しちゃうなんて放送局もあったので映画館に行くのはやはり娯楽の中心であったのだ。  

      ☆

私が住む町の人口は6万人あったろうか、それくらいの規模の街に映画館が6館あった。昇映、電気館、中央劇場、佐野劇場、セントラル、それと?何だっけで計6。各館それぞれ大映系、日活系、東宝系、洋画系などをメインに上映していた。入場料は100円くらいか、小遣いを工面すれば何とかなるという額だったと記憶する。新聞折り込みのビラ下券という割引券を使ったりして週一は胸ときめく暗がりへと飛んで行き、月内でグルリと全館制覇していた。加えて隣町の館にも遠征したりの映画小僧だったのである。

      ☆

町に封切り館はなく「旅愁」とか「悲愁」とか「ロビンフッドの冒険」「怪人二十面相」「夜はやさしく」「地獄の戦線」「丹下左膳」「ペペルモコ」などなど、製作封切時間を越えて同時期にショータイム。2本、3本立ては当たり前、夏休みなどには「四谷怪談」「番町皿屋敷」「フランケンシュタイン」「少年探偵団」等まとめて13本立てなどと超弩級の興業もあって、朝から弁当持参で繰り出す。 エアコン設備などないから日が暮れると換気と冷風呼び込みのため窓を全開にする。昼間も休憩時間には窓が開け放たれ眩しく外気導入となる。すると、蚊など入ってきます。館内に蚊取り線香が焚いてあり(タバコを喫っている大人もいたが黙認されていたようだ)各種の煙たなびき、加えて係員が噴霧器をシュポシュポ押して殺虫剤を噴霧しながら通路を行ったり来たりする。

      ☆

 休憩時間には「呼び出し」のサービス」があった。これをいたずらの偽名で申し込む。マイクなど使わず、館のお姉さんが肉声で「万町からお越しの吉田兼好さま、お友達がロビーでお待ちです」

仲間が次々と申し込むので珍名や偉人有名人の名前が続き「夏目漱石」はないよね、さすがにばれてしまいましたごめんなさい。   ラブロマンスと戦争スペクタクルごった煮観賞と殺虫剤の臭いと呼び出しオバさんの声が映画というもの。迷惑音が出る煎餅やポップコーンをおやつに選びポリポリやるのも思い出のひとつです、ごめんなさい。

          ☆

*ハエ(フライ)蚊(マスキート)の殺し屋「フマキラー」噴霧器はレトロな過去のものと思ってましたが現役でした、ごめんなさい。800円くらいで今でもホームセンターで売ってます。